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この総選挙から思い起こす ~寛政の改革 松平定信と田沼意次~

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以前、徳川吉宗の享保の改革、
そして、尾張・徳川宗春のそれに反する
経済政策についてお書きしましたが、
また、徳川時代の出来事とこの選挙を並べてみたいと思います。


まずは有名な落首二首。

田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水

白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき



田沼意次は徳川吉宗に部屋住み
(家督を継げず養子にも行かない身)時代から仕え、
吉宗が八代将軍となり側近に、
そして、次の九代家重の時に御側御用取次に取り立てられます。
さらに次の十代家治の代になりますと側用人に。
幕府の中で最も権力を握る人物となります。
田沼は諸大名と縁組みし、
幕閣に登用することで田沼派を形成、
徳川幕府の政は田沼の考え一つで決められるようになっていました。
そして、賄賂の横行、田沼自身も賄賂まみれだった、と。
嫡男・意知を若年寄に就かせ、
これは大名の子としては極めて異例の人事でした。

このあたりから雲行きが怪しくなります。
田沼派への権力集中を面白くないと考えたからか、
意知が旗本・佐野政言に江戸城内で刺されて死亡、
また浅間山噴火から天明の大飢饉、
そして、田沼を最も頼りにしていた家治が亡くなると失脚、
蟄居のうえ、彼が城主の遠州相良城は打ち壊しとなります。

家斉が十一代将軍に就任。
田沼意次に代わって実権を握ったのが、
老中首座となる松平定信でした。
幕閣から田沼派を一掃、
クーデターのような形で実権を握りました。
その彼は御三卿田安家初代当主・宗武の七男。
つまりは吉宗の孫に当たります。
そんなことで詠まれた狂歌が

田や沼や よごれた御世を 改めて 清くぞすめる 白河の水

です。
泥田や沼(田沼)のような濁った水のような世の中を
清く澄んだ白河(松平定信は白河藩主)のように改めて、
という歌です。
彼は実際に世の中を改めるべく改革を始めます。
それが

寛政の改革

です。
もちろん、お手本はお祖父さんの吉宗が行った享保の改革となります。
当然、質素倹約が推し進められます。
それは武家だけではなく、
下々にまで及び、食事は一汁一菜、
着物は木綿地というだけではなく、
柄にまで制限が設けられました。
田沼時代は商業が重んじられましたが、
それを重農主義へと戻し、
武家中心の支配構造を取り戻していきます。
吉宗の時代だけではなく、
家康の時代の古き良き封建社会を理想とする彼は、
儒学(特に朱子学)を重んじ、風紀粛清、身分制度の徹底、
田沼がある程度は認めていた蘭学を完全に禁制としてしまいしました。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10544079688.html
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10700954852.html
(で、これも発禁に)

この改革により、学問はもちろん、
経済も停滞、思想統制、押しつけられた倹約令に

白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき

の落首がもてはやされました。
松平定信の政治ではなく、
元の田沼時代を懐かしんでいます。

結局、幕府の財政安定化も軌道に乗らず、
民心の反発も強かったことから、
彼は失脚してしまうのでした。


時代劇を見ている人間にとっては、
「田沼意次 = 悪」でありました。
しかし、彼は印旛沼開拓、
蝦夷地開発などを行い(定信が中止させますが)、
経済重視の政策は、
それにより商家からの税収を増やすのが目的でした。
そして、それは成功しています。
幕府の収入も潤いました。
賄賂の横行についても、
そもそも昔から物事を頼む時には、
金銭を持参するというのが常識であったともされ、
田沼が商業を重んじたことから、
それが特に目に着いたと考えられます。
そして、それを誇張したのは松平定信らで、
後の世でも田沼が悪人として評価されることになったのは、
彼らの陰謀が原因だという考えもあります。
田沼意次が亡くなった後、
松平定信は彼の私財を没収しようとしますが、
その時に蓄えられているはずの大金は見つからなかったそうです。


前回の衆院選の結果、
そして今回の衆院選について世論調査を見ていて、
こんなことを考えてみました。





ねてしてタペ

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