必ず教科書で見る肖像画であり、
そして、落書きの被害に遭いやすい彼です。
実はこの絵、大阪の茨木市で発見されたものだそうで、
狩野派らしい落款があるものの、
誰の絵なのかは不明、
落書きされやすい一番大きな理由に、
このヘアスタイル「トンスラ」が挙げられると思うんですが、
彼が属するイエズス会(というか創始者の一人なので凄い!)には、
このトンスラの習慣はなかったとされていて、
ザビエル没から80年後頃に描かれた
この絵の想像が誤っているのだという話もあります。
ということで、欧米などではこのように、
特殊な頭髪ではない姿で描かれることが多いようです。
以前、これを知ったブラマヨの小杉さんが
なんや、先輩やと思てたのに~!
と叫んでおられたのを思い出します。
フランシスコ・ザビエル 1506年頃スペインの生まれ。
時のポルトガル王の依頼により、
インド・ゴアへ派遣、その後、マラッカで知り合った洗礼を受けた日本人、
ヤジロウなど3人の日本人とともに日本を目指し、
現在の鹿児島市に到着します。
そして、彼が日本に初めてキリスト教を伝えることになります。
誰もが彼が何者で、何をしたかを知っている割りには、
彼がどのような人物であったかを知っている人はあまりいません。
そこで、今回の番組です。
ザビエルはが出来ず
いた
「フランシスコ・ザビエル書簡」より
私が日本人に
「私の教えを守らず地獄へ堕ちた人は、絶対救われへん」
と教えると、日本人はめっちゃがっかりする。
日本人は、教えを守らずになくなった家族や祖先を想って、
「地獄に堕ちた人を助ける方法も、ホンマはありますよね?」とか
「何でいつまでも地獄におらなアカンの?」とか聞いてくるけど、
私は「助ける方法は…ない!」と答えるばかり。
日本人は、祖先が救われないことを知ると、
もう泣いてしゃあない。
その姿を見ていると、こっちまで悲しくなってくるわ。
彼の日本の最初の印象は、
人の話をよく聞いてくれる、礼儀正しい、
理解力も充分にある、と「これは良い国に来た」と喜んだのですが、
布教活動の中で、地獄の概念を説明して、
そこへ行きたくなくば、と言ったところ、
デウスの存在なんか知るはずもないそれ以前の日本人は、
既に地獄に行っているはずで、
それが救われることはないと言われた訳ですから、
嘆き悲しんだ訳ですね。
この発想はザビエルにとって驚きであったようです。
番組のこはにわ先生は芥川龍之介「蜘蛛の糸」を例に挙げられました。
このように、そもそも日本では地獄に堕ちても
何かしらの救いがあると考えられていたのでしょう。
対するキリスト教の場合は「裁き」。
それまでの行いや信仰により裁かれた後、地獄行きとなることも。
日本の仏法だと、地獄道は六道の一つであり、
六道輪廻で6つの世界で生まれ変わりを繰り返すことになっています。
六道を地蔵菩薩(お地蔵さんには凄い力が!)が巡り(六地蔵)、
それぞれの苦しみを救って下さると考えられています。
当時の現地の民間の信仰がどうだったのかはわかりませんが、
やはり、何かしらの救いがあったのでしょうから、
それが本当はないんだと知らされた日本人の落胆に、
彼自身も悲しんでいた、というお話です。
以上、
ザビエルは地獄に怯える日本人を救うことが出来ず
やりきれない気持ちになっていた
でした。
ザビエルは日本人の
にいた
「フランシスコ・ザビエル書簡」より
日本人は好奇心が強いし、議論に長けていて、知識欲が旺盛だ。
(中略)
ただ日本人の質問は、際限ないねん。
どれだけ多くの質問をもってきて、答えを私に迫ってくることか…
もう書き切れない!
あの人ら、地球が丸いことも知らんねんで。
日本へ行く神父は、覚悟せなアカン。想像以上や。
昼も夜も、客に押しかけられるわ、質問攻めにあうわ。
神父やのに、お祈りする時間や、黙想する時間は、ないよ。
メシ喰う時間も寝る時間も、ないんやから…
当時から日本人は知りたがりだったんですね。
もちろん、カトリックのこともたくさん質問されたでしょうけれど、
もっと自然科学、博物学的な質問も多かったことでしょう。
それらに対する知識欲が全てザビエルに向けられ、
たいへん苦しんだそうです。
以上、
ザビエルは日本人の
質問攻めに疲れ果てていた
でした。
ザビエルは京都に行ったが
のでされた
「フランシスコ・ザビエル書簡」より
私たちの布教活動の効果はイマイチだったので、
京都で天皇にお会いして、
ちゃんと布教する許可を得ようと思ったのですが、
お会いすることが出来ませんでした。
でもまあ、日本国民も、随分前から
天皇に従わなくなっていると聞いたので、
これ以上、会おうとするのは諦めました。
とある一方、
「ルイス・フロイス 日本史」より
ザビエルは天皇を訪問したとき、ボロボロの格好だったので、
「天皇への贈り物、持ってる?」と尋ねられた。
ザビエルは
「いえ、今は…。でも、持って来てはいるんですよ!
長崎の平戸に残してきたから、天皇に会えるなら、
お渡しするために取り寄せますよ!」と答えた。
でも結局、聞き入れてもらえず、会えなかった。
となっています。
フロイスが正しいのであれば、
ザビエルの手紙にあるのは負け惜しみなのかもしれません。
この頃の京の都は応仁の乱以降、荒れ果てていて、
ザビエルはこれが都なのかとガッカリしています。
日本側の記録によりますと、
ザビエルは手ぶらではなく、
何かしらの土産は持ってきていたようです。
ただ、この時の後奈良天皇は
「貢ぎ物をするから布教させてくれ」と言われていると感じたらしく、
この当時の朝廷は困窮を極めていたはずですが、
清廉潔白な天皇だってのでしょう。
その貢ぎ物は受け取らないと返事しています。
ザビエルは「貢ぎ物を受け取らない=布教する事を断られた」と勘違い、
日本での布教の限界を感じることになります。
しかしながら、これも直接後奈良天皇のところへ
話を持って行けるはずはなく、
間に何人かの取り次ぎが入っていたでしょうから、
ザビエルの真意が上手く伝わらなかった可能性もあります。
その逆の意思も同様ですね。
ましてや当時、誰も知らないスペイン語だかカタルーニャ語ですから。
以上、
ザビエルは京都に行ったが
お土産を忘れたので門前払いされた
でした。
番組は以上です。
ザビエルが京にいたのは11日間。
天皇に贈るはずだった数々の品物、
インド総督とゴア司教の親書、望遠鏡、洋琴、置時計、
ガラスの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、銃などなどは
平戸の大内義隆に贈られました。
そして、平戸での宣教の許可を得、
ここで2ヶ月間の腰を据えた布教活動を行っています。
この時の新たな信徒は500人超だったとか。
その後、再びインドのゴアへ。
さらに日本でのさらなる布教を考えたのか、
日本文化に多大なる影響を与えている中国での布教も考え始め、
マカオの西南西の島、上川島に到着。
ここでの布教は日本での活動よりも上手くいかず、
病を得てこの島で客死しています。
享年46。
彼の遺体の右腕はローマのイエズス会総長の命令で切断、
この時、死後50年が過ぎていましたが、
鮮血がほとばしったと記録されています。
聖人とされた彼の遺体は世界各地に運ばれ、
大分トラピスト修道院には右腕の皮膚が、
東京カテドラル聖マリア大聖堂にもあるとか?
インドのゴアのボン・ジェズ教会では
10年に一度、彼の棺が開帳されるらしく、
それが2014年、来年に公開される、とのこと。
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