始まりました2014年の大河ドラマ。
まあ、毎年毎年第1話終了後に
なんだかんだと文句が聞こえてくるもので、
今回はナレーションが気に入らない人が。
別におかしいとは思いませんでしたけれど、
藤村志保さんのあの口調で、
製作側がどういう作品にしたいのかが覗えましたけれど。
まずは1年間楽しめそうな気がする出だしとなっていました。
ただ、もしも視聴者の中に、
聞き取りづらいという意見があるならば、
その点は考えるべきかもしれません。
ともあれ、黒田官兵衛の人となりを感じるべく、
まずはABCのコヤブ歴史堂から。
官兵衛は子供の頃、
すぎてれた
「黒田家譜」より
十七~八の頃、官兵衛は和歌の研究にめちゃめちゃハマり、
「和歌の道を究めたる!」という志に燃えていた。
ところが、近所の親しい円満坊というお坊さんから
「そんなんアカン」と叱られ、
「たしかに、今は戦国やし、弓や馬を勉強するべき時に、
和歌の道でもないわな~」と思い返して、和歌をやめた
こはにわ先生によりますと、
官兵衛は切り替えがはやい人物だったとのことで、
後にキリスト教徒となりますが、
そのあたりにも影響しているのでしょう。
ただ、個人的に資料を読んでみますと、
彼の歌に対する知識や感覚は、
晩年期にまで生きているようです。
以上、
官兵衛は子供の頃、
歌にハマりすぎて坊さんに怒られた
でした。
官兵衛はがつかず
さらにた
「名将言行録」より
ある時、年収百石の部下がピチピチの鯛を白木の折に乗せ、
官兵衛に献上してきた。すると官兵衛は不機嫌になり、
「お前は給料安いくせに、こんな贅沢なもんを、
土産に待ってくるようじゃアカンわ。家計も苦しく、
武具も揃わず、家族にも迷惑かけてるやろ!そんな調子じゃ、
そのうちワシの恩も忘れるバカタレ野郎になるぞ!」
と叱りつけた。
部下は戸惑い、
「申し訳ありません! しかし、この鯛は折と一緒に、
知人から今朝もらったもので、殿に食べてもらいたいと思い、
お持ちしたのでございます」と言った。
事情を知った官兵衛は、
「ま、そんなら白木の折は持って帰って、売ってしまえ!
家に置いといても無駄になる!」と言った
現代でもありがちな話ではあります。
官兵衛は家臣などに教訓を垂れて説教をよくしていたようで、
そのあたりの失敗なのでしょう。
理不尽だと思いつつも、
反論してはいけないことになっています。
深謀遠慮を地で行くようなイメージがありますが、
こういう人間くささが感じられるエピソードもあります。
以上、
官兵衛は勘違いで部下をボロカスに叱り、
引っ込みがつかずさらに説教を垂れた
でした。
官兵衛は実は…だった
「黒田家譜」「寛永諸家系図伝」
「荘厳寺黒田家略系図」「播磨鑑」より
この4つの系図が知られています。
そもそも、黒田氏がどういう一族なのかというのが
よくわかっていません。
官兵衛生誕地 つばぜり合い 姫路市vs西脇市 大河ブーム見越し譲らず
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140104/wlf14010414130015-n1.htm
1週間ほど前にこの記事を読みました。
大河ドラマですから、観光客が増えるので、
どちらも官兵衛生誕の地としてアピールしたい訳ですね。
これに加えて、近江国という話があるのでややこしいです。
官兵衛自身も職隆の実子、職隆の養子、
重隆の子などの説があります。
この検証については、
一次資料からの考察がされている
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ただ、難解ではないものの、
書き手の癖なのか独特の読みづらさは感じます。
氏素性が今ひとつ不明ながら、
福岡藩52万石の礎を築いた人物ですから、
何かしらの出自を記しておかなくてはならなくなり、
先祖の伝説、伝承、伝説の伝聞などなどに
話を盛っているうちにこんなことになったものと考えられます。
以上、
官兵衛は実は、
どこの何者かよくわからない人だった
でした。
続いてラジオ歴史堂から。
黒田官兵衛は博打帰りの部下がテンパって
「バクチなんかしてません!」
と言ったのを粋な計らいで赦した
黒田家では博打禁止だったようです。
「名将言行録」よりますと、
ある日、彼の家臣が博打で大儲け。
次の日、主・官兵衛と顔を合わせるや、
「バクチなんかしてません!」
と、官兵衛が何も言わないのに
その家臣が慌てているのを見て、
官兵衛は何も言わずにその場は済ませ、
後に官兵衛に呼び出された家臣は、
切腹を覚悟で御前に出ると、
官兵衛が言いつけたのは庭仕事でした。
胸をなで下ろしつつ庭掃除をしていると、
官兵衛が近づいてきて耳元で、
「博打で勝ったなら、二度と手を出すな。
次は赦さんからな」
と言ったそうです。
黒田官兵衛は徹底した倹約家だったが
使う時はポンと使う男だった
官兵衛はいいように言えば始末屋で、
悪いようにいえばケチとしても知られています。
それが上の家臣からの鯛の贈り物の話にも
その経済的価値観が出ていると思うんですが、
使う時には惜しみなく蓄えを放出しています。
野菜の皮を漬け物に、
魚の骨も無駄にするならと下知、
しかし、家臣への褒美は
家臣の想像を上回る額だったようです。
関ヶ原の時もそうでしたね。
一方で、自身の鎧兜、刀剣などは
下賜するのではなく、
家臣の買取、払い下げ方式でもありました。
最後に彼の名前について触れておきます。
一般に、よく知られているのが「黒田官兵衛」です。
ただ、最初は父が主家の姓を受けていたため、
小寺姓だったのでしょう。
官兵衛の次によく見かけるのが「孝高(よしたか)」。
通称が官兵衛で、孝高は諱になります。
この孝高についても、一時期「考高」としていますが、
「考」を「よし」と読むのは無理があるとのこと。
また、私たちは「官兵衛」を
「かんべえ」と当然のように読んでいますが、
彼自身は「Quambioye」と記していて、
秀吉の書状にも「かんぴょうえ」と書かれているようですね。
おそらく、本来はそのように呼ぶべきなのでしょう。