細川忠興は戦国時代、徳川時代初期の人。
織田信長が明智光秀の娘・玉(珠/ガラシャ)を嫁がせていて、
徳川時代には肥後熊本藩54万石の初代当主となります。
「古雄逸談」より
細川忠興が、立花宗茂と飲んで雑談していた時、
宗成の家臣の伊藤なんとかさんが、忠興にこんな事を問うた。
「戦場で、よう兵士が褌脱げて死んでますやんか。
アレ、何でですか?」すると忠興は、
「それ、当然のことやで。不思議なことなんかあらへん。
だいたい、人の体っちゅうもんは、血の気、パンパンの時は、
褌も、ピチーって体について脱げへんねん。
ところが、やられるやろ? 死んだらすぐ痩せるねん!
特に刀でバッサーいかれたら、血ぃドッバー出るから、
一瞬で体がシュッと細なって、褌も脱げて
見てられへんカンジになってまうねん。
ところがやな、真の勇者はこんな時、
褌を肩から吊り下げて、落ちんようにしとんねん。
真の勇者でも、常に死ぬ覚悟がないヤツは、
そういう注意も覚悟もないねん。わかった?」と語ると。
伊藤なんとかさんも、宗成さんもえらい感心していた。
戦では下半身露出の死体がゴロゴロしていたのでしょうか?
よくわかりませんが、
忠興はそれに備えて、
褌が落ちないような工夫をしていたという記述ですね。
一説には、官位が越中守だった忠興が
越中褌を考案したとも。
政治家としても優秀で、
そして戦場では「家来の背中を見て戦うのは恥」と考えていたらしく、
自ら先頭に立って、戦に臨んでいたのでしょう。
教養もあり、それでも私を含む現代人にとっては、
好感度は高くなりそうにない人なのでした。
それについては、次で。
以上、
細川忠興は戦では褌にサスペンダーをしていた
「綿考輯録」より
ある時、なにやら奥の台所が騒がしいです。
仲では、一人の男に忠興さんが目をつけ、
「コラお前、何、ワシの嫁をヤラしい芽で見とんねん!」と
因縁をつけ、その場で手打ちにしてしまいました。
忠興さんは「どや」顔で、その刀の血を
ガラシャ様の小袖で拭きましたが、
ガラシャ様は少しも驚かず、それどころから
その小袖を三日も四日もお着替えになりませんでした。
これには忠興さんも結局、「ごめん迷惑かけた」と謝り、
やっとお着替えになられました。
この後、忠興さんがガラシャ様に向かって
「お前蛇やな! オレ、鬼やけど!」と言うと、
「鬼の女房には蛇ぐらいがちょうどいいでしょ!」
と言われたそうです。
細川忠興といいますと、
何といってもこの話が出てきます。
というか、ガラシャがらみ以外のことについては
あまり知られていません。
彼女に対しては、やたら嫉妬深く、
執着心が強かったとされる忠興、
この部分以外では、優れた政治家であり、
戦場では知勇に優れた武将だったのでしょうが、
後の世の人にとっては、
あまり印象はよくならないですよね。
その他、食事中にご飯に髪の毛が入っているとして、
料理人を斬り殺し、その首を妻の膝に置いた、とか、
妻がキリスト教に改宗した時には、
それを制止しなかったとして、
侍女の鼻を削ぎ落としています。
さらに合戦(結果的に関ヶ原の戦い)に向かう際には、
留守中に屋敷が襲われて妻に敵の手が迫ったらと心配し、
爆薬を仕掛けて出立、現実に西軍の手の者に襲われ、
妻は爆死しています…
以上、
細川忠興は、愛する妻の気を惹こうと勢いで部下を殺したが、
妻がノーリアクションなので謝った
でした。
「名将言行録」より
忠興は、男色を厳しく禁じていたが、
厳しく言うほど止まず、
忠興のお気に入りの小姓と、近習の者がデキてしまった。
忠興は二人を呼び出し、
「男色のこと、これほど厳しく言うてるのに、
命がけでするなんて、いっそアッパレや!
その心がけで戦場に臨めば、役に立つというもの。
また声かけるから、あんじょうヤッときや」と言い、
恩賞を渡し、それ以来、なんにも仕事を与えなかった。
すると次第に、周囲の目が
「なんかあいつらアカンやつ」みたいな空気になって、
以後、自然と男色はなくなっていった。
この時代、男色は咎められるようなことではありませんでした。
名だたる戦国武将の多くが女色男色どちらもだったのでしょう。
ただ、男色が家中で入り乱れると、
家臣の間で諍いが起きやすくなります。
嫉妬心やくっついたのだの、別れたのだの、
これでは家中の統率が出来ません。
そこで一計を案じた忠興は、
一旦は認めて褒賞まで出しておき、
あとは仕事で干すという策に出たわけですね。
彼の優れた政治手腕に
徳川秀忠は彼を尊敬していたようです。
以上、
細川忠興は、"褒め殺し"で家臣の男色を減らした
でした。
続いては、ラジオ歴史堂から。
細川忠興は兜の立物は軽いのにこだわった
立物とは兜についている装飾の一つ。
この場合、鍬形の前立が付けられています。
いつ死ぬのかわからないのに、
頑丈なものがいいとか考えるよりも、
動きやすさなどを優先した方がいいという考えでしょうか。
細川忠興は千利休に最も気に入られていた弟子だった
「利休七哲」という言葉があります。
利休の弟子の中でも特に高弟7人を指して、
後の人がこう呼びました。
豊臣秀吉の怒りを買った利休が切腹を命じられた時、
助命のための運動をし、
また、利休の元に見舞いに訪れたのは、
忠興と古田織部だけだったとか。
結果的に、最後の茶会となった集まりでは、
利休から貴重な茶器を譲り受けていて、
これはもしもの時のための形見分けだったのでは、
とも考えられているそうです。
番組でもこはにわ先生が仰っていましたけれど、
奥さんに関すること以外は、
いい話ばかりなんですねえ…
そんな彼を狂わせた妻、
細川ガラシャについてはこちらをご覧ください。
歴史秘話ヒストリア 「強く!激しく!美しく! 戦国を生きた女たち」 その2
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10924737857.html
織田信長が明智光秀の娘・玉(珠/ガラシャ)を嫁がせていて、
徳川時代には肥後熊本藩54万石の初代当主となります。
コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~
細川忠興は、戦では
にダーをしていた
にダーをしていた
「古雄逸談」より
細川忠興が、立花宗茂と飲んで雑談していた時、
宗成の家臣の伊藤なんとかさんが、忠興にこんな事を問うた。
「戦場で、よう兵士が褌脱げて死んでますやんか。
アレ、何でですか?」すると忠興は、
「それ、当然のことやで。不思議なことなんかあらへん。
だいたい、人の体っちゅうもんは、血の気、パンパンの時は、
褌も、ピチーって体について脱げへんねん。
ところが、やられるやろ? 死んだらすぐ痩せるねん!
特に刀でバッサーいかれたら、血ぃドッバー出るから、
一瞬で体がシュッと細なって、褌も脱げて
見てられへんカンジになってまうねん。
ところがやな、真の勇者はこんな時、
褌を肩から吊り下げて、落ちんようにしとんねん。
真の勇者でも、常に死ぬ覚悟がないヤツは、
そういう注意も覚悟もないねん。わかった?」と語ると。
伊藤なんとかさんも、宗成さんもえらい感心していた。
戦では下半身露出の死体がゴロゴロしていたのでしょうか?
よくわかりませんが、
忠興はそれに備えて、
褌が落ちないような工夫をしていたという記述ですね。
一説には、官位が越中守だった忠興が
越中褌を考案したとも。
政治家としても優秀で、
そして戦場では「家来の背中を見て戦うのは恥」と考えていたらしく、
自ら先頭に立って、戦に臨んでいたのでしょう。
教養もあり、それでも私を含む現代人にとっては、
好感度は高くなりそうにない人なのでした。
それについては、次で。
以上、
細川忠興は戦では褌にサスペンダーをしていた
コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~
細川忠興は、愛する妻の気を惹こうと
たが、妻がのでった
たが、妻がのでった
「綿考輯録」より
ある時、なにやら奥の台所が騒がしいです。
仲では、一人の男に忠興さんが目をつけ、
「コラお前、何、ワシの嫁をヤラしい芽で見とんねん!」と
因縁をつけ、その場で手打ちにしてしまいました。
忠興さんは「どや」顔で、その刀の血を
ガラシャ様の小袖で拭きましたが、
ガラシャ様は少しも驚かず、それどころから
その小袖を三日も四日もお着替えになりませんでした。
これには忠興さんも結局、「ごめん迷惑かけた」と謝り、
やっとお着替えになられました。
この後、忠興さんがガラシャ様に向かって
「お前蛇やな! オレ、鬼やけど!」と言うと、
「鬼の女房には蛇ぐらいがちょうどいいでしょ!」
と言われたそうです。
細川忠興といいますと、
何といってもこの話が出てきます。
というか、ガラシャがらみ以外のことについては
あまり知られていません。
彼女に対しては、やたら嫉妬深く、
執着心が強かったとされる忠興、
この部分以外では、優れた政治家であり、
戦場では知勇に優れた武将だったのでしょうが、
後の世の人にとっては、
あまり印象はよくならないですよね。
その他、食事中にご飯に髪の毛が入っているとして、
料理人を斬り殺し、その首を妻の膝に置いた、とか、
妻がキリスト教に改宗した時には、
それを制止しなかったとして、
侍女の鼻を削ぎ落としています。
さらに合戦(結果的に関ヶ原の戦い)に向かう際には、
留守中に屋敷が襲われて妻に敵の手が迫ったらと心配し、
爆薬を仕掛けて出立、現実に西軍の手の者に襲われ、
妻は爆死しています…
以上、
細川忠興は、愛する妻の気を惹こうと勢いで部下を殺したが、
妻がノーリアクションなので謝った
でした。
コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~
細川忠興は、で
家臣のを減らした
家臣のを減らした
「名将言行録」より
忠興は、男色を厳しく禁じていたが、
厳しく言うほど止まず、
忠興のお気に入りの小姓と、近習の者がデキてしまった。
忠興は二人を呼び出し、
「男色のこと、これほど厳しく言うてるのに、
命がけでするなんて、いっそアッパレや!
その心がけで戦場に臨めば、役に立つというもの。
また声かけるから、あんじょうヤッときや」と言い、
恩賞を渡し、それ以来、なんにも仕事を与えなかった。
すると次第に、周囲の目が
「なんかあいつらアカンやつ」みたいな空気になって、
以後、自然と男色はなくなっていった。
この時代、男色は咎められるようなことではありませんでした。
名だたる戦国武将の多くが女色男色どちらもだったのでしょう。
ただ、男色が家中で入り乱れると、
家臣の間で諍いが起きやすくなります。
嫉妬心やくっついたのだの、別れたのだの、
これでは家中の統率が出来ません。
そこで一計を案じた忠興は、
一旦は認めて褒賞まで出しておき、
あとは仕事で干すという策に出たわけですね。
彼の優れた政治手腕に
徳川秀忠は彼を尊敬していたようです。
以上、
細川忠興は、"褒め殺し"で家臣の男色を減らした
でした。
続いては、ラジオ歴史堂から。
細川忠興は兜の立物は軽いのにこだわった
立物とは兜についている装飾の一つ。
この場合、鍬形の前立が付けられています。
いつ死ぬのかわからないのに、
頑丈なものがいいとか考えるよりも、
動きやすさなどを優先した方がいいという考えでしょうか。
細川忠興は千利休に最も気に入られていた弟子だった
「利休七哲」という言葉があります。
利休の弟子の中でも特に高弟7人を指して、
後の人がこう呼びました。
豊臣秀吉の怒りを買った利休が切腹を命じられた時、
助命のための運動をし、
また、利休の元に見舞いに訪れたのは、
忠興と古田織部だけだったとか。
結果的に、最後の茶会となった集まりでは、
利休から貴重な茶器を譲り受けていて、
これはもしもの時のための形見分けだったのでは、
とも考えられているそうです。
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