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軍師官兵衛 第5話「死闘の果て」 その背景 ~青山の戦い・土器山の戦い~

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まずはお知らせ。
9日の総合テレビの放送は東京都知事選の影響で、
19時15分開始となっていますのでご注意を。

さて、青山・土器山の戦いでは、
兵300の黒田官兵衛の軍が赤松政秀の軍3000を退けました。
ここを掘ってみたいのですが、
この戦の背景はそこそこ複雑です。
第3話の時にもお書きしたようなことも含めまして、
何かと赤松氏は身内で諍いが続いており、
青山・土器山の戦いも元はといえば、
赤松氏の問題から始まっています。

置塩城の主・赤松義祐、
彼は父の晴政を追放しています。
美濃の斎藤義龍、近江の浅井長政など、
状況は違えど、息子が父を追い出すということが
戦国の世では時々あったのでしょうか。

追い出された晴政は娘婿で龍野城主の赤松政秀を頼ります。
政秀が晴政を匿ったことで、
義祐と政秀が対立、7年後、晴政の死により和解するものの、
また新たな火種により争いが再燃することになってしまいます。
上洛を目指す足利義昭から、
支援を求める書状が政秀の元に届き、
また、義昭の上洛が実現し彼が征夷大将軍となったことで、
播磨守護職・義祐は一つの疑念を抱くようになりました。
政秀は守護職の地位を奪おうとしているのではないか、と。
政秀はさらに義昭との繋がりを深めるべく、
自身の娘を義昭の侍女として差し出そうとしています。
この娘を義祐の命で捕らえたのが小寺政職だったんですね。
元々、義祐が父を追放したのは、
備前国の浦上宗景の後ろ盾を得てのことでした。
そして、今回も政秀の娘を捕らえるとともに、
浦上宗景に派兵を要請、宗景にしてみれば、
要請されての形ですので、
堂々と播磨に兵を進めることが出来ます。

赤松義祐と浦上宗景の軍に挟撃される形となった政秀は、
足利義政に救援を要請、義昭が出兵を命じたのが織田信長でした。
信長からの軍が義祐の領内に侵入、
形成は逆転、政秀は義祐に従う黒田家の姫路城を攻めることになります。

赤松政秀の軍3000、
対する黒田の軍は300程度しか集まりませんでした。
赤松義祐は既に御着城で籠城の構えで、
小寺政職もそれに従い、
多くの兵も城に籠もったためです。
寡兵で十倍の数の軍を破るべく、
黒田(小寺)官兵衛は姫路城の西、青山に兵を埋伏させ、
義祐の軍を奇襲することで撤退させることに成功しました。

翌月、赤松義祐は再び3000の兵を率いて龍野城を出発、
迎える黒田の軍は土器山(一説には姫路西の瓦山、現在の船越山)に布陣、
しかし、今回は義祐の軍が夜陰に紛れての奇襲、
依然兵力差のある戦であり、黒田軍が奮闘するも苦戦、
ここで父・職隆が姫路城から、
英賀城からは三木通秋から援軍が送られたことで、
なんとか持ちこたえます。
赤松義祐は姫路東方の小丸山に退却、
ここで黒田軍は長期戦になるのは兵力差から不利と考え、
軍を立て直すとすぐにその夜に敵陣を急襲、
義祐の陣では、黒田軍を叩いた直後であったために、
敵襲は頭になく、義祐らは龍野城に引き返しました。
これが資料に出てくる黒田官兵衛が初めて指揮した戦のようですね。



そういえば、今回の大河では、
敵陣を急襲する前に父の仇を討つべく、
母里武兵衛が怪我を押して出陣しようとして、
それを官兵衛が制止しています。
伝わるところによりますと、
武兵衛はこの急襲を無謀だとして、
また、自身の怪我の状態から、官兵衛に
「死ねということか?」と訊いています。
官兵衛返して「そういうことになるだろう」と。

この戦で、母里家の男子は全て戦死してしまいました。
一族の男子24人全て。
母里家の娘が曽我一信に嫁ぎ、
そこで生まれた男子・曽我太兵衛(友信)に
官兵衛は母里家を継がせることにします。
母里太兵衛。
彼のエピソードも描かれるのでしょうか。








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