学問というものは、
新しい発見などがあれば、書き換わるもの。
それは「歴史」も同じで、
時代ごとに、学校で使用する教科書の内容も変化してきています。
有名なところでは、
鎌倉幕府の成立をかつては1192年としてきましたが、
最近は1185年と教えています。
江戸時代の身分制度についても、
「士農工商」の順は「士←農←工←商」と、
階段状に身分の順になっていたとされていましたが、
今は「士←農=工=商」と、
武士のみ身分が高く、
職人、商人、農民、漁民の身分は等しいとされているそうです。
その他、別人説、不在説などもあり、
それが教科書にも影響を与えています。
今回のお話は、
文教大学付属高校と早稲田大学教育学部で教鞭を執られている
歴史研究家の河合敦先生。
この番組には5回目のご登場です。
「世界一受けたい授業」などでもお馴染みですね。
私も昨年、この本を読みました。
教科書で消えつつある…、のが聖徳太子。
歴史秘話ヒストリア「みんなでいい国にしよう! ~プリンス聖徳太子 ニッポン補完計画~」 その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10953949474.html
既に聖徳太子についてはこのような記事を作っておりますが、
根強いのが
聖徳太子はいなかった(虚構説)
という説です。
かつて度々紙幣や印紙の肖像画になったこの絵も聖徳太子ではないとされ、
少なくとも、彼の時代よりも
ずいぶん後に描かれたものであることは確実です。
彼の名前が文献に登場するのは奈良時代の日本書紀。
その編纂時に一つの大きな問題が持ち上がりました。
645年の乙巳の変、大化の改新です。
中大兄皇子らが、権力者・蘇我入鹿を暗殺した上、
蘇我氏を滅ぼし、その後、天皇中心の政治へと体制を改めました。
中大兄皇子は天智天皇。
天皇の行いをただ暴虐なクーデターとしては記録出来ない、
天皇の行為を正しかったことにするためには、
蘇我氏は悪でなければなりません。
そのために生み出されたのが聖徳太子だというのです。
この説によれば、
「十七条憲法」「遣隋使」「冠位十二階」の政治的功績は、
本来、蘇我氏によるものだったのが、
日本書紀編纂時に、聖徳太子の手柄に書き換えられた、となります。
こうして聖徳太子はスーパーヒーローに、
そして、そんなヒーローの一族を滅ぼした蘇我氏を
討伐したのが天智天皇だというストーリーが出来上がります。
真実の程は不明ですが、
河合先生は、聖徳太子が実在の人物ではない可能性は、
80%程度あるのではないかととのこと。
徳川家康。
徳川幕府260年の始祖です。
彼の死は1616年、彼の遺言に従い、
久能山東照宮に埋葬されました。
しかし、それは徳川家康ではなかった、
という説があります。
大阪府堺市の禅寺・南宗寺。
ここの一つの墓。
墓標にあるのは
徳川家康墓
の文字。
家康は久能山に祀られ、
後に日光に移されたはず。
なぜ、大阪の堺に家康の墓があるのでしょうか?
豊臣秀吉の死後、幕府を開闢した徳川家康にとって、
徳川家の障害となりうるのは豊臣家のみでした。
1614年、家康は秀頼の大坂城を攻撃、これが大坂冬の陣、
そして、翌年には大坂夏の陣が起こります。
夏の陣では、現在の大阪市天王寺区の茶臼山に
真田信繁(幸村)が陣を構えました。
真田の軍は正面から徳川本陣へと突撃、狙うは家康の首。
その気勢に、徳川の旗本は総崩れ、家康を見失います。
家康は本陣を脱出、しかし、何度も切腹を口走ったとされています。
幸村は三度突撃し、果敢に戦いますが、
ついに討たれてしまいました。
そして、大坂城は落城、
徳川幕府に憂いはなくなったのでした。
しかし、別の話も伝わっています。
真田軍の猛攻から駕籠で逃げている時に、
襲撃されたというのです。
襲ったのは、豊臣方の後藤又兵衞。
猛将で知られる彼の槍が、
家康の駕籠を貫きました。
又兵衛もこの時に討たれてしまいますが、
堺まで家康が逃げ延びたはずが、
駕籠の中の家康は既に死亡していました。
もしも、この事実が知られたならば、
徳川の軍の士気は下がり、
豊臣軍が盛り返してしまう…
家来たちは、家康の遺体を南宗寺に隠しました。
そして、家康に似た農夫を影武者に仕立てたといいます。
大坂夏の陣から亡くなる1年間の記録が少ないこと、
また、南宗寺にはかつて東照宮がありました。
1945年の空襲で失われましたが、
その門だけが現在に伝わっています。
そこには徳川の三葉葵が。
また、1623年の7月と8月に、
秀忠と家光がそれぞれ南宗寺を訪れています。
南宗寺にはこのような名前のない墓石も。
その傍らには
「この無名塔を家康の墓と認める」と。
さらには日光東照宮の宝物館に収蔵されているこの網代駕籠。
屋根の部分に空いている丸い穴、
それは後藤又兵衞の一撃によるものでしょうか?
関係ありませんが、
後藤又兵衞は既に「軍師官兵衛」に登場済みですね。
今後の彼と黒田長政の描写も、楽しみにしたいです。
私は大阪人なので、
この話は何度も見聞きしていて、
テレビや新聞などでも見かけました。
たしかに、幸村の襲撃により、供回りは壊走、
この後に家康が討たれていたとすれば、
それを知る者は、軍全体にそれが知られないようにするでしょう。
こういう場合、まずは遺体を遠くへ運ぶ、
堺はひと月前に焼き討ちにあっていて、
家康の遺体を隠しやすかったのではないか、
そのようにも説明されます。
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