今夜は少しだけ。
産経新聞に例の佐村河内氏の事件について、
マスコミが果たした"役割"の考察がありました。
以後、私もいろいろと考える訳でして、
やはり、事物を評価するにおいて、
その事物のみで評価するのは難しいことだと思います。
ただ、その評価の中心に、
その事物があるべきだという考えは変わりません。
その産経のコラムの中に、
批評家・小林秀雄氏の「当麻」からこのような一文が引かれていました。
美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない
とても有名な件なんですね。
なるほどなあ、と思いました。
原文を読んでいないので、
小林氏の意図とは違う捉え方をしているかもしれませんが、
それが美を捉える時の原理ではないかと納得しました。
何度もお書きしているように、
私は綺麗なものが大好きなんですが、
秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず
この世阿弥の言葉に疑問があった訳です。
反発していたようにも思います。
結局、私の美に関する価値観は、
この世阿弥の言葉をどう捉えるかなのでしょう。
小林氏のほうは能の「当麻」からなのでしょうか。
だとすれば「たえま」とすべきかも。
世阿弥の作ですね。
これは偶然の符合でも何でもなく、
小林氏が世阿弥の考えに対して何かしら思うところがあったので、
このようなことを書いたのではないかと想像しました。
ある種の必然、小林氏の「当麻」を読まないといけなくなりました。
絶対、私には不向きの本でしょうけれど。
私には知識が足りないでしょうが、
わからないならわからないなりに
得られるものがあることを期待しましょう。
この中に収録されているようですね。
↧
小林秀雄 『美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない』
↧