歌麿「深川の雪」66年ぶり公開へ 肉筆画の大作、箱根・岡田美術館
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140302/art14030219050002-n1.htm
歌麿「深川の雪」再発見に衝撃 栃木市との関係、本格解明を
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140304/tcg14030402270004-n1.htm
それぞれ、2日と4日の記事です。
今回の番組は、ここで報じられている
喜多川歌麿の幻の大作「深川の雪」についてでした。
白黒の写真でその存在は知られていましたが、
その所在はわからなくなっていて、
それが今回、明らかになったという訳ですね。
縦199cm、横341cm、
深川の料亭、遊里が舞台の大肉筆画で、
そこには27人の遊女たちが描かれています。
制作時期は髪型、笹色紅などの描写から、
享和2(1802)年から歌麿が亡くなる文化3(1806)年と推定、
つまり、彼にとっての最晩年の作品だということになります。
「深川の雪」が初めて記録に表れるのは、
栃木市でのこと。
明治12(1879)年に栃木市内の寺で書画骨董の展示会が開かれ、
その時の目録に
雪月花圖紙本大物
とあり、この「雪」が「深川の雪」に当たります。
「深川の雪」は三部作で「月」と「花」も存在していたんです。
それらは「品川の月」「吉原の花」と呼ばれていました。
この3作は、明治20年代半ばまでに、
パリに流出し、その後、1903年に「月」が米・ワシントンに。
品川の海と月。
三部作は全て元々掛け軸ですが、
今は額装されています。
1957年、「花」は米コネティカット州ハートフォードへ。
吉原の花と美を競う遊女たち。
残る「雪」は昭和14(1939)年、
日本人が買い付け、里帰り、
銀座の松坂屋で3日間展示されていたことはわかっています。
それが古美術商の手を経て、
東京に姿を現した訳です。
雪月花はそれぞれ、制作時期が異なり、
大きさも違っています。
「品川の月」は天明8(1788)年頃の制作で、
大きさは147×319cm。
「吉原の花」は寛政3~4(1791~92)年頃、
187×257cm。
「品川の雪」が199×341ですので、
これが三部作中最大のものです。
日本の画工にとっては異例の長期に渡る連作。
喜多川歌麿はなぜ、
長期間に渡り、一つのテーマの連作を手がけたのでしょうか?
少なくとも、明治のある時期には
雪月花の三部作は栃木市にありました。
栃木と歌麿に何か関わりがあるのでしょうか?
江戸時代、水運で栄えた栃木には、
歌麿との関わりを示す資料はありませんでした。
しかし、近年、新たな発見が続いています。
「女達磨図」
そして、「鍾馗図」と「三福神の相撲図」。
いずれも小品です。
これらが描かれたのが寛政3~4(1791~92)年頃、
ちょうど、「吉原の花」の制作時期に当たり、
これらは栃木で大作を描きつつ、
その合間に小品に取り組んだことを示唆します。
江戸の人気絵師・喜多川歌麿がなぜ、
栃木で絵を描いたのでしょうか?
歌麿の絵を辿っていくと、
「酒桶数有」「小袖裾長」といった名前が出てきます。
彼らは栃木の狂歌師。
歌麿は筆綾丸(ふでのあやまる)という名の狂歌師でもありました。
封建的社会の世の中で、
身分も性別もない自由な空間、
そこに江戸と行き来する地方の商人たちの姿もありました。
歌麿の絵の中に最も多く登場する狂歌師「通用亭徳成」、
彼の本名はは善野喜兵衛、栃木の豪商でした。
明治になって栃木の寺で展示会が開かれた時の
三部作の所有者は善野家。
歌麿を栃木に招き、絵を描かせたのは
善野家であると、地元では伝わっているそうです。
彼が初めて栃木招かれたのは、
30代の頃のこと。
それはようやく彼が修業時代を終えようとしていた頃で、
彼がこの狂歌本「画本虫ゑらみ」を出した時期に当たります。
売り出したばかりの絵師が招かれたのは、
新しい才能が現れたことに対する
先物買いの意識があったのではないでしょうか。
これまでは挿絵規模の大きさのものしか描いてこなかった彼が
初めての大作を描くことになりました。
「品川の月」の右上の額。
てる月の 鏡をぬいて 樽まくら
雪もこんこん 花もさけさけ
四方赤良
当時流行した狂歌が書かれています。
これは狂歌が縁で、自分が招かれたことを
示しているのかもしれません。
…続きます。
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